海の上での言葉の意味と歴史を知る

海の上では、言葉は単なる意思疎通の手段ではありません。時にそれは、人命や船の安全を左右する重要な「装備」となります。とりわけ無線通信では、雑音、風や波の音、電波状態の悪化などが重なり、陸上よりもはるかに聞き間違いが起こりやすい環境に置かれています。こうした条件の中で、海事の世界には日常会話とは異なる独特の言い回しや用語が発達してきました。

その背景には、長い航海の歴史と、数多くの事故や失敗の経験があります。無線が普及する以前から、船舶同士や船と港の間では、限られた手段で正確に意思を伝える必要がありました。無線通信が実用化されると、声だけを頼りに情報を伝える状況が生まれ、誤解を防ぐための言葉の工夫が急速に進んでいったのです。

たとえば、肯定や理解を示す表現にも、曖昧さを排除する工夫が見られます。日本語の無線では「了解」が広く使われ、単なる「はい」ではなく、内容を正確に理解したことを示す言葉として定着しました。一方、英語圏では「Roger(ロジャー)」が同様の役割を果たしています。この言葉は、アルファベットの「R」が「Received(受信した)」を意味していたことに由来し、無線通信の黎明期から使われてきました。ここには、短く、明瞭で、誤聴されにくい言葉を選ぼうとする実践的な知恵が反映されています。

数字の読み方も、海上無線の歴史の中で洗練されてきました。日本語の無線では、「4」は「し」ではなく「よん」、「7」は「しち」ではなく「なな」と読むのが一般的です。また「0」は「ゼロ」や「レイ」と発音され、状況に応じて使い分けられます。これは、似た音同士が混信時に誤認される危険を避けるための工夫です。たとえば「1(いち)」と「7(しち)」は音が似ており、無線の雑音の中では区別が難しくなります。そのため、より聞き分けやすい発音へと整えられ、標準化されていきました。こうした変化は、単なる言葉の違いではなく、安全性を高めるための必然的な進化だったといえます。

方向や位置を示す言葉にも、海ならではの合理性があります。「右・左」の代わりに「スターボード(右舷)」「ポート(左舷)」を用いるのは、その典型です。左右という表現は話し手の向きによって意味が変わる可能性がありますが、船体を基準とする右舷・左舷なら常に同じ方向を指します。この表現は帆船時代から受け継がれてきたもので、航海の現場で培われた経験が言葉として定着したものです。

こうして生まれた海の言葉は、単なる専門用語ではありません。数多くの事故や教訓を背景に、「どのように言えば最も安全か」を追求した結果、生まれた言語体系です。海上や無線で使われる独特の言い回しは、長い歴史の中で磨かれてきた安全文化そのものだといえるでしょう。その一語一語の背後には、海と向き合ってきた人々の経験と知恵が、今も静かに息づいているのです。

本日のひとこと

「千丈の堤も蟻の一穴から(せんじょうのつつみもありのいっけつから)」【韓非『韓非子』より】
「どんなに大きく立派なものでも、わずかな欠陥や油断から崩壊する」という意味のことわざです。
千丈の堤も、蟻の穴から決壊するという教訓で、国家・組織・制度の崩壊は、大きな原因よりも小さな欠陥から始まる、という思想を示しています。
港の現場では、ひとつの判断や一言のやり取りが、その後の作業の流れを大きく左右します。無線での聞き間違い、確認不足、曖昧な返答──それらは一見すると取るに足らない小さなミスに見えるかもしれません。しかし、巨大な崩壊は往々にして、そうした小さなほころびから始まります。だからこそ、私たちは日々のやり取りを軽んじず、一つひとつの言葉と動作に責任を持たなければなりません。相手の意図を正確に聞き取り、自らの意志を明確に伝える。その積み重ねこそが、確かな安全と信頼を支える基盤になっていくのです。